甲子園準決勝で日大三高に惜しくも敗れた県岐阜商業に左指がなくグラブスイッチする横山温大選手が大活躍しており、話題となっております。同じような障害のある元高校球児の選手がその後どのような活躍をしているのか調べたところ、高橋峻也さん
が世界で活躍していることがわかり大学や高校、病気を含め深堀してみました。
高橋峻也のプロフィール
氏名:高橋峻也(たかはししゅんや)
生年月日:1998年7月2日
所属先:トヨタ自動車
出身地:鳥取県
学歴:鳥取県境高、日本福祉大学卒
この鳥取県境高校は、地元でも、野球の強豪と呼ばれている高校です。右手に障害があり、この高校へ入ったということは、やはり野球への夢が忘れられないのかなと思います。
高橋峻也さんの障害とは
3歳のころに、脊髄炎の病気があり、右腕の自由を失いました。
情報によりますと、骨髄炎は、通常は細菌、抵酸菌、または真菌によって引き起こされる骨の感染症です。
細菌、抵酸菌、または真菌が血液を介して、あるいは近くの感染組織から汚染された傷口から広がって骨に感染することがあります。
高橋峻也さんの病気の原因としては、はっきりしたことはわかりませんでした。
推測ですが、なんらかの原因で発熱や感染部位(右腕)の痛み、赤み、腫れ、熱感などの症状がでてきて診察を受けた結果。右腕が骨髄炎となっていたのではと思います。
治療としては、抗菌薬の投与や手術により膿を除去するという方法もあるようです。
高橋峻也さんの生まれた時代からみると、医療は進化しておりますので上記のような治療もできたのではと思いますが詳細は、わかっておりません。
甲子園での活躍(野球歴)
3歳の頃、脊髄炎の病気で右腕の自由を失い、どうしても野球をやりたかったため、左腕でボールを取りクラブを外し、左腕でボールを投げるといグラブスイッチを1年間練習し、小学校2年生から野球を始めたののきっかけです。
2016年ついにその夢舞台がきました。高校3年時には、鳥取県境高等学校のメンバーとして甲子園(全国高校野球選手権大会)へ出場しました。
父伝授のグラブスイッチでレギュラーを勝ち取り、背番号10を身に付け右翼手として甲子園のグランドに立ちました。
新聞記事にも記載がありますが「野球がなかったら、何のとりえもなく、人生面白くなかった」と高校生時に語っております。
この言葉は、同じ環境にいる方々に相当な勇気を与えたのではと推測します。
現在の活躍
高校3年の時、進路に悩んでいたところ、日本福祉大学陸上競技部監督の三井利仁先生から突然高校に電話があり「陸上競技でパラリンピックを一緒にめざさないか」という1本の電話がきっかけとなり、日本福祉大学に進学しました。
日本福祉大学に進学し、同時に東京パラリンピックを目指して陸上競技(やり投げ)を始めました。
1年目からU20日本代表に選出され、2019年にはドバイ世界パラ陸上競技選手権大会の日本代表に選出。
日本人選手最高順位となる6位入賞を果たしました。
大学卒業後、トヨタ自動車に入社し、東京パラリンピック出場を目指していましたが、出場はかなわなかったようです。
その後、2022年ジャンパンパラ大会で61m24cmの日本記録を投げ、2022年世界ランキング3位に入りました。

2023年パリ2023世界パラ陸上競技選手大会で、男子やり投げ8位、2024年神戸で行われた、世界パラ陸上競技選手権大会男子やり投げ6位という素晴らしい成績をおさめております。
そして2024年ついに夢の舞台でもありパリパラリンピックに出場、入賞はできませんでしたが男子やり投げで6位の成績をおさめております。
左手1本の競技ですが、努力のあかしともいえます。
いまも、トヨタ自動車の代表選手として活躍しております。
まとめ
高橋峻也さんは、右手の自由がきかなくても父が野球を進め小学校からグラブスイッチを身に付け、野球をして、鳥取県境高等学校のメンバーとして甲子園に出場。
出身は、鳥取県で、年齢は26歳、学歴は、鳥取県境高等学校後、日本福祉大学へ進学し陸上競技のやり投げ選手として活躍し、トヨタ自動車へ就職し、やり投げ選手として2024年パリパラリンピックへ出場し、6位の成績をおさめている。
いかがでしたでしょうか、私は勇気をもらいます。
五体満足な私は、とても高橋さんにはかないません。
「やればできる!」という強いパワーをもらったような気がします。
そんな高橋峻也さんをこれからも応援しましょう。
最後までご覧いただきありがとうございます。
コメント