カンボジアでアジア小児医療センターを創設した医師の吉岡秀人さんが情熱大陸で話題となっている。
また、名言や格言なども話題となっております。
そこで気になり、吉岡医師のバックグラウンドや私生活、そして吉岡秀人さんの心を支える哲学について気になった方も多いはずです。
この記事では、アジア小児医療センター(ジャパンハートこども医療センター)の創設者であり、「日本のブラック・ジャック」とも呼ばれる吉岡秀人医師の学歴、経歴、家族、そして心に刺さる名言について調べてみました
吉岡秀人さんのプロフィール
名前:吉岡 秀人(よしおか ひでと)
生年月日:1965年8月12日
出身地:大阪府吹田市
職業:小児外科医
特定非営利活動法人
ジャパンハート最高顧問
専門:小児外科
特に小児がんの手術
肝移植など高度な外科手術もこなす
活動拠点:カンボジア、ミャンマー、ラオス、日本

一見すると「すごいお医者さん」という肩書きですが、吉岡秀人さんの人生は決して順風満帆なエリート街道だったわけではありません。
むしろ、挫折と苦悩の連続から生まれた「雑草魂」こそが、吉岡秀人さんの原動力なのです。
吉岡秀人さんの学歴はどうなの
大分医科大学へ入学後、29歳で医者となる。
医師といえば、「幼い頃から成績優秀で、有名進学校からストレートで医学部へ」というイメージを持つかもしれません。
しかし、吉岡医師のルートは少し異なり、非常に人間味に溢れています。
高校時代:プロを目指したラグビー部
大阪府立千里高校時代、吉岡秀人さんはラグビーに青春のすべてを捧げていました。
本気でプロの選手を目指すほどの熱量でしたが、怪我や実力の限界を感じ、その夢を断念せざるを得なくなります。
「自分には何ができるのか」「人の役に立つことで生きていきたい」 大きな挫折の中で見出した次なる目標が、医師という道でした。
大学時代:大分医科大学へ
医師を目指して猛勉強の末、大分医科大学(現在の大分大学医学部)に入学します。

医師免許を取ればよかったと大分大学へと語る
決して裕福な家庭ではなかったため、学費や生活費を工面する苦労もあったと言われています。
しかし、ラグビーで培った「何度倒されても立ち上がる精神」と体力は、後の過酷な途上国医療での活動に大きく活かされることになります。
吉岡秀人さんが医師免許を取得したのは29歳の頃。医師としてのスタートは、決して早い方ではありませんでした。
吉岡秀人さんの経歴はどうなっているの
プロフィールにも記載しておりますが、やはりジャパンハートの設立でしょうね。
吉岡医師の経歴を語る上で欠かせないのが、「ミャンマー」という国との出会いです。
救急救命医から、単身ミャンマーへ
大学卒業後、神奈川県の病院で救急救命医として勤務し、外科医としての腕を磨きました。
しかし、1995年、30歳の時に転機が訪れます。

「自分にしかできない医療をやりたい」という想いを胸に、吉岡秀人さんは単身ミャンマーへ飛び立ちました。
当時のミャンマーは軍事政権下にあり、医療事情は極めて劣悪でした。
吉岡秀人さんはそこで、驚くべき行動に出ます。
伝説の「100円診療」ともっと貧しい人への「無料診療」
ミャンマーのマンダレーなどの病院で、吉岡秀人さんは日本人医師として診療を開始。
貧しい患者の人生を取り戻したいと語る

貧しい人々からは治療費を受け取らず、あるいは現地の人のプライドを傷つけないよう、わずかな金額(日本円にして数十円~数百円程度)だけを受け取るというスタイルを貫きました。
「お金がないから死ぬ」という現実を目の当たりにし、吉岡秀人さんは来る日も来る日もメスを握り続けました。
「ジャパンハート」の設立
一度は活動の継続が困難になり帰国を余儀なくされますが、吉岡秀人さんの情熱は消えませんでした。
2004年、「日本発祥の国際医療NGO」として「ジャパンハート」を設立しております。

「医療の届かないところに医療を届ける」を理念に、再び海外での活動を本格化させます。
その後、活動の場をカンボジア、ラオスへと広げ、現在に至ります。

吉岡秀人さんの家族や妻は?夫婦で戦う医療の現場
過酷な海外での医療活動を、たった一人で続けることは不可能です。
吉岡医師の最大の理解者であり、戦友とも言えるのが、妻の吉岡春奈(はるな)さんです。

妻・春奈さんとの出会い
実は、奥様の春奈さんも医療従事者であり、小児科医です。
二人の馴れ初めは、まさにそのミャンマーでの医療活動の中でした。
吉岡医師がミャンマーで孤軍奮闘していた頃、その志に共鳴し、日本から医師として現地に渡ったのが春奈さんだったと言われています。
戦友としての夫婦
電気もろくに通らない、空調もない手術室で、汗だくになりながら手術をする吉岡医師です。

その隣で、的確に器具を出し、同じ小児科医として医療を行う春奈さんがいました。
二人は単なる夫婦という枠を超え、同じ志を持つ「同志」として、数えきれないほどの命を救ってきました。
吉岡医師が「自分一人ではここまで来られなかった」と語る背景には、間違いなく奥様の献身的な支えと、プロフェッショナルな働きがあります。
現在、お二人にはお子さんもいらっしゃいますが、家族ぐるみで日本と海外を行き来し、活動を続けています。
吉岡秀人さんの現在の仕事(活躍)や活躍
現在、吉岡医師は「ジャパンハート最高顧問」として、現場の最前線に立ち続けています。
アジア小児医療センターでの執刀
今回の『情熱大陸』でも焦点が当てられたカンボジアの「アジア小児医療センター(ジャパンハートこども医療センター)」です。
ここで吉岡秀人さんは、小児がんをはじめとする難易度の高い手術を執刀しています。
カンボジア国内では手の施しようがないと言われた子供たちが、最後の希望として吉岡医師のもとを訪れます。
アジア小児医療センター記事
「後進の育成」と「仕組みづくり」
今の吉岡医師が特に力を入れているのが、若い医師の育成です。
「自分が死んだら、この活動が終わってしまうのでは意味がない」 そう考え、日本から多くの若手医師や医学生、看護師をボランティアとして受け入れ、技術と精神を伝承しています。
吉岡秀人さんの厳しくも温かい指導を受けた医療者たちが、今、日本全国、そして世界中で活躍し始めています。
吉岡秀人さんの心を揺さぶる名言・格言
吉岡医師の言葉は、医療の枠を超え、私たちの生き方そのものに問いかけてきます。
「僕が助けているんじゃない。僕が患者さんに助けられているんだ」
医師として必要とされること、頼られることで、自分自身の存在意義を確認させてもらっているという謙虚な姿勢の表れです。

「人生は、費やした努力や時間で決まるんじゃない。誰かのために何ができたかで決まる」
学歴や地位ではなく、行動の結果こそが全てであるという、吉岡秀人さんの実践主義を象徴する言葉です。
「明日死ぬかもしれない。だから、今やるんだ」
常に死と隣り合わせの現場にいるからこそ出る、強烈な「今」への執着。
先延ばしにしがちな私たちに突き刺さる言葉です。
吉岡秀人さんのまとめ
『情熱大陸』で話題となった吉岡秀人医師について、その学歴から現在の活動までを調べてみました。
経歴: ラグビーでの挫折を経て医師になり、30歳で単身ミャンマーへ行きます。
活動: NGO「ジャパンハート」を創設し、アジアの貧困層へ高度医療を無償提供しております。
家族: 同じ小児科医である妻・春奈さんと二人三脚で歩んできております。
現在: カンボジアを拠点に、高難度手術と後進の育成に命を燃やしていると言われております。
吉岡秀人さんの活動は、「特別な英雄の物語」として消費して終わるべきではありません。
「自分には何ができるのか?」 そう自問自答し、小さな一歩を踏み出すきっかけを、吉岡秀人さんは私たちに与えてくれています。
吉岡医師の手術着は、いつも汗と泥で汚れているかもしれません。
しかし、その姿はどんなブランドのスーツよりも美しく、尊い輝きを放っています。
吉岡秀人さんと、吉岡秀人さんが率いるジャパンハートの挑戦は、これからも多くの子供たちの未来を照らし続けることでしょう。
これからも吉岡秀人さんを日本という国から応援しましょう。
最後までご覧いただきありがとうございます。



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